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目の前に
湯気が立ちのぼり、本来なら優雅なひと時を演出するはずだった。
馴染みのメイドが、卵白を泡立てて甘くしたメランジェを、わたくしのカーヒーにだけ乗せる。
いつもなら、親友のカタリンにもたっぷりと乗せるのに。
ここはカタリンの屋敷だ。
貴族学園の帰りに、どちらかの家に寄るのはよくあること。
だが、わたくしは手を伸ばさない。
焦れた「親友」が、飲まないのかと急かしてきた。
「どうして飲まないの? ほら、メランジェが溶けてしまうわ」
「どうして、そんなに飲ませたいの?」
「喉が渇いたろうと思って」
「それはあなたも同じでしょう?」
前回は、疑いもしないで飲んでしまった。
それを思い出しただけで、口の中が酸っぱくなる気がする。
「……そうね、飲むわ」
そう言いながら、彼女はわたくしの顔をじっと見ている。
彼女は一口飲んで見せた。
「ほら、なんともないでしょう」
「変な言い草ね。なんだか怪しいわ」
カーヒーは同じモカポットから注いでいたから、きっとメランジェに毒が仕込まれているのね。
「し、失礼ね!」
「それなら、わたくしのカップからも一口飲んでくださる?
無理してブラックを飲むことないわよ」
わたくしの前に置かれたカップをソーサーごと持ち上げて、彼女の目の前に突きつける。
「ど、どうして……」
「さぁ? あなたの協力者が寝返ったのかもね」
親友がメイドを睨みつける。
――そう、その女が共犯者なのね。
貴族学園で出会って、仲良くしてきた三年間。何度、あなたとそのメイドに、わたくしは笑われていたのでしょう。
婚約者を寝取られた間抜けな女?
「誤解よ。あなたの話を訊かれたから答えただけ」という言葉を信じた、愚か者?
もう、たわいない話で笑い合った、あの日々は二度と来ないのね。
受け取ってもらえなかったカップをテーブルに戻す。ささやかな未練が手元に伝わったのか、ガチャと無作法な音を立てた。
カタリンは失敗を悟ったようで、青ざめている。
詫びの言葉も言い訳も聞くことができなかった。
「残念だわ」
誰に言うともなく、つぶやく。
そして、わたくしは胸元から笛を取り出し、ピィーと吹いた。
馬車に隠れていた騎士と魔術師、御者のふりをしていた警備兵が応接室に駆けつけてくれる。
止めようとする使用人は、気絶させるか魔法で拘束するかして、無力化された。
騎士がカタリンを、警備兵がメイドを取り押える。
魔術師がティーカップに呪文をかけて調べていく。
「あ~あ、致死量の毒だね」
親友が悔しそうに顔を歪めた。
「それで? あなたの単独犯? それともわたくしの婚約者と共謀しているの?」
拘束されているカタリンに少し距離を開けたところから、訊いてみた。
「わたくしたちは愛し合っているのよ!」
「それなら、わたくしと彼が婚約する前に動くべきだったわね。
幼なじみなんだから、いくらでも時間があったでしょうに。こんな姑息なことをして」
これは嫌味だ。
彼の母親である伯爵夫人は、新興の男爵令嬢など認めないだろう。
けれど、莫大な資産を背景に、説得する努力をすればよかったのだ。もしくは、今、抱えている醜聞を盾にして……。
「馬鹿な女。
どうせ殺すなら、伯爵夫人を殺せばいいのに。わたくしがいなくなっても、別の婚約者を捜してくるわよ」
「な……ど、そんな」
カタリンが目を丸くしている。
わたくしの口調に驚いたのかしら。
それとも、言っている内容に「そういう手があったか」と賛同しているのかしらね。
ふと思いついて、メランジェが入ったボウルから一匙スプーンですくった。シルバーではなく陶器のスプーン。わざわざ、毒で反応しないスプーンを用意したのね。
拘束されているカタリンの顎をつかみ、顔を上向かせた。その額にぼたりと垂らしてみる。
「うぎゃああああ~」
すごい悲鳴があがった。
「熱い? 痛い? ……飲んだ時は、熱くて喉が焼けて苦しかったわ」
そう、前回のわたくしは疑わずに飲んでしまい、あっけなく殺されたのだ。
死んだはずなのに、気がついたらこの日の一月前に戻っていた。
おかしな夢でも見たのかと思ったが、記憶にある同じ出来事をなぞるような日々が続く。
そして、今日、決定的なできごとで、夢でないことが証明されてしまった。
立派な体格の騎士が、全力になるくらいの暴れっぷりだ。
「これ、肌からも吸収されますの?」
「ゼロではないけど、粘膜から摂取したときのように命に別状はないはずだ。少しシミになるくらいかな」
魔術師が答えた。
あらあら、顔の真ん中に垂らしてしまったわ。
でも、謝らないわよ。死ぬのとどちらがマシかしら、と思ってしまったもの。
わたくしは最終的に呼吸ができなくなって、死んだと思う。
涙だけでなく、鼻水やよだれで見るも無惨な姿で這いつくばった記憶がある。
苦しくて、悔しくて……悲しかった。
一月前に巻き戻ってから、気をつけて観察してみれば、怪しいことはたくさんあった。
前回、気がつかなかったのが不思議なほど。
自分が邪魔者で、憎まれているとは思わずに、ぽわぽわと過ごしていた。なんて呑気に生きていたのかと、自己嫌悪に陥った。
あまりにうるさいので、この家の主が登場した。彼女の父親だ。
「ここで何をしているんだね」
一代で巨万の富を築いた男爵は、流石の迫力だ。
「毒殺未遂の現行犯逮捕です」きっぱりと騎士が答えた。
「君たちの勘違いじゃないかね?」
驚く様子もない。娘が何をしようとしているか知っていたのか。
「勘違いかどうかは、お話を訊いてから判断しますので。お嬢様をお借りしますよ」
父親は、自分の横をすり抜けようとした騎士の腕を掴んだ。
「勘違いだろう、そうでなければ……」
父親の体から
「はい、父親も現行犯逮捕」
魔術師が魔術で出した紐で父親を縛る。
「精神に働きかける禁術、このブレスレットか。どこで買ったのか、じっくり聞かせてもらうよ」
魔術師が魔術で信号弾を打ち上げ、屋敷の外に待機していた増援がなだれ込んできた。
「ご令嬢の妄想じゃなかったのか……」そんなつぶやきが聞こえた。
彼らと一緒に騎士団の詰め所に行き、調書を取られた。
その後で、騎士団の馬車で家に送ってもらう。
カタリンの家に置いてきた馬車を取りに行かなければ、と気が重くなる。
出迎えてくれた執事にそれを話すと、婚約者が来ているという。
「もうそろそろ夕食の時間だというのに、まだいるの?」
約束もないのに晩餐にありつこうとしていると、誤解されるような時間帯だ。普通は避ける、マナー違反だ。
「無事だったんだね」
ソファから腰を浮かせて、婚約者のマールトンは心配していたかのように振る舞った。
「何がでしょう?」
疲れもあるし、この男が元凶だと思うと苛ついた声音になった。
「だから、彼女の誘いに乗らないでと言ったのに。仕方のない子だなぁ。
解毒薬を持っているんだ、ほら」
この人は、彼女が凶行に及ぼうとしていると知っていて黙っていたのか?
「駄目だ」と口で言うだけで、理由を説明したり、乱入して防いだりする気は微塵もない、ということ?
「『彼女』で通じると思うなんて、特別な存在だと言っているようなものね」
感じるのは、落胆と怒り。知っていたのに、ただ成り行きに任せていたのかという失望。
目の前で慌てている男の、なんと滑稽なこと。
一度目の私なら、「どうして力尽くで止めてくれなかったの?」と泣いて縋っていたでしょう。
体と一緒に心まで死んでしまったみたい。
……いえ、巻き戻ってからの一か月で、少しずつ心が枯れていったのかも。
「何をおっしゃっているのか、わかりかねます」
きっぱりと拒絶する。
気持ち悪い。何を考えているんだか。そんな嫌悪感が勝った。
ことが起きてから後出しで言われても、遅いのだ。ありがたいともなんとも思わない。
この二度目だって、わたくしが事前に対策していなければ、今頃は死んでいた。またしても、間に合わなかった――それで済ますつもりか。
「君を助けるために、僕が時間を巻き戻したんだよ!」
間抜けなマールトンが胸を張る。
ああ、そういうこと……今、切り札として使うのね。
だから? 恩に着せて、どうしようというのか。
今回も見殺しにしようとしていたんじゃないか、という疑いが消えない。
「……」
無言で佇むわたくしを、もどかしげに見つめる。
彼の中では、ここで感激して飛びつく愚かな女が生きているんでしょうね。
いえ、信じたかったのでしょうね。
婚約者からの愛も、親友との友情も。
浮気をしていると教えてくれた人たちを、遠ざけるほどに。
「僕は君を愛しているんだ」
突然言われた言葉が、とても寒々しい。
あの親友がお茶会やデートに乱入してきたとき、デレデレと鼻の下を伸ばしていたではないか。
舌っ足らずなしゃべり方、勢いのある新興貴族。彼女を射止めたいという殿方は多数いた。
だから、彼女に選ばれたと言うことが自慢で、でも浮気だから自慢できなくて……自尊心がねじ曲がっていったのよね。
いい人ぶろうとしないで、婚約解消してくれればよかったのに。捨てられた
「あの女が、僕を騙していたんだ」
自ら甘い毒にふらふらと寄っていったくせに、何を今更……。
お腹でお湯が沸く……へそで茶を沸かす? とにかく、それだわ、異国のことわざ。
「前回は結婚してしまったんだけど、君を毒殺したと言うから殴ってやった。
それで、君とやり直すために……」
時間を遡るのも禁術だ。
魔術師に借りた魔導具をこっそりと起動した。この男の自白を録音しておかなきゃ。
「今、あなた、時間を巻き戻したと言ったの?」
信じられない、という演技をする。ちょっと、棒読みかしら。
大根役者と言われるかもしれないが、大事なのはわたくしの演技力じゃないわ。
そこまでして取り戻したいほど、いい関係は築いていなかったじゃない。あんな女と結婚できるような男に、未練はないわ。
――他に何を、隠しているのかしら。
「そうだ。君も記憶があるんじゃないのか? 最近、少し変わったよ。冷たくなったんじゃないか」
もう一人、巻き戻った記憶がある人がいる。その人が色々と教えてくれたのよ。あなたたちの裏切りを。
あなたのことは幼くて気が回らないだけだと思っていたの。だから、いろいろ教えてあげようと、口を出した。
まさか、婚約者用の予算でカタリンにだけプレゼントして、できないフリをして仕事をわたくしに押しつけようとしていたなんてね。
だからもう、あなたのために何一つやりたくないし、微笑むのすら苦痛なの。
「お友達が、あなたマールトン・ヘーデルヴァーリとカタリン・ヴァッシュが浮気していると忠告してくださったんです」
「それは……。ちょっと気が合うだけだと言っておいたじゃないか」
「それなら、なぜ、今日、わたくしが彼女の家に行くと知っていたの? 示し合わせていたんじゃなくて?」
これを聞いた人たちは、彼らが共犯だと思うだろう。
「違う! 前回は知らなかったし、今回は君を止めようとしただろ!」
「理由もおっしゃらず、一言『行かない方がいい』とだけ。それは『止めようとした』うちに入るのかしら?」
「君は! 何もわかっていない!」
なんて大きな声でしょう。こうやって威嚇して、わたくしを言いなりにしようとするの、大嫌い。
「急いで飲まないと」と強く腕を掴んできたので、もみ合いになり、その解毒薬とやらの瓶が落ちて割れた。
本当に毒を飲んでいたら、こんな悠長に話していられる状態じゃないわ。即効性があったもの。
呆れるほど間抜けな男。
「なんてことを! 君を死なせたくないんだ」
嘘だとは思えないくらい、迫真の演技だわ。これなら、一回目のわたくしが騙されても仕方ないかしら。
「マールトン様が錯乱なさっているわ。助けて!」
わたくしは困惑しているふうを装って叫ぶ。
控えていた侍女が、従僕たちを呼び、彼を取り押えてもらう。
侍女がわたくしの乱れてしまった髪を整えながら、「『助けてと言うまで黙って見ていろ』などと……肝が冷えました」と小言を言う。
マールトンは「どうしてわかってくれないんだ」と、もがいている。
彼の家の馬車を待機場所から入り口に移動させ、彼を馬車に押し込んだ。
「落ち着いてください。今日はもうお帰りになったほうがいいと思いますわ」
御者も何かを察したようで、急いで帰っていった。
それから父の執務室に行き「婚約者が、わたくしが毒殺されるはずだったと言った。親友と共謀しているに違いない」と伝える。
父は急いで騎士団に通報してくれた。禁術を行ったという自白を録音した魔道具も持っていってもらう。
親友はもう捕まっているから、これで婚約者のマールトンも捕まえてもらえば、一安心ね。
死に戻ってから一月の間に、わたくしから婚約解消を申し出ることも考えた。
だが、それでは「わたくしは殺されない」けれど、犯人たちの思うつぼになってしまう気がしたのだ。
やり返さなかったら、モヤモヤというかムカムカというか、未消化の感情を抱え込んでしまうのではないだろうか。
被害者のわたくしだけが、不快な思いを抱えるなんて、理不尽だわ。
婚約破棄されるよりも、犯罪者になる方が彼にとって痛手だろう。
わたくしの命を軽んじて、弄ぶなど、絶対に許さない。
わたくしは、ガーボルに水が入ったコップを手渡した。応接室のローテーブルには、修理したばかりの魔道具が置かれている。ガーボルは水を口に含み、火傷した口の中を冷やした。わたくしは時を巻き戻され、再び毒殺されないために対策を練らなければならない。魔術師のガーボルは、なぜか協力してくれそうなので、今はその厚意に甘えている。どう考えても、一人でどうにかできることではないから。彼は、時を巻き戻した結果を見届けたいだけなのだろうか。それとも、わたくしが苦しんでいるのを見て、罪悪感に駆られているのだろうか。「お嬢様。休憩になさいませんか」侍女がエステルハージトルテを持って来た。アーモンドメレンゲとバタークリームを幾重にも重ねたケーキだ。前回、毒が入っていたのは飲み物の方だとわかり、食べ物には普通に手を伸ばせるようになってきた。ガーボルは口の中を火傷したばかりなので、エルダーフラワーのシロップを水で薄めた飲み物を用意した。わたくしは、リスのぬいぐるみが淹れた紅茶を口にする。少し味が薄いけれど、色はきれいに出ていた。抽出時間が短めでも美味しく淹れられる茶葉は、どれだったかしら……。そんなことを考えていたら、ガーボルが「あの……」と声をかけてきた。「あの本は読みましたか?」ガーボルは、わたくしの反応を探るように見つめてくる。灰色の瞳に熱がこもっているような気がして、どきっと胸が鳴った。「まだ途中までですけど……」わたくしは、ガーボルがあの本を渡してきた意味を考えていた。もしかして、わたくしを『愛に囚われた女』だと思っているのだろうか。「違っていたら、すみません」ガーボルはそう前置きをしてから、話し始めた。「僕は、似たような女性を何人も見てきました。魔道具の実験の被験者の中には、謝礼金目当てで夫や恋人に連れて来られる女性もいるんです。相手の言いなりになっていて……殴られても『自分が悪い』とか『教育してくれてるだけだ』とか言うんですよ」その声には、同情とも諦めともつかない響きがあった。「いつもなら、口を出したら余計なトラブルになると思って黙っています。でも、今回は……口を挟んでもいいかなと思って」ああ。毒殺されなかったとしても、わたくしの人生そのものが、少しずつ壊されていたのか。「そういう人たちを見てきた僕からのアドバイス――」ガー
わたくしは毒殺され、一月前へ戻って来た。以前は気がつかなかった婚約者と親友の不貞に気づき、飲み物を口にすることさえ怖くなってしまった。時を巻き戻したという魔術師からは、マールトンを許すのか、それとも復讐するのか、自分で決めるようにと言われている。どうすればいいのだろう。悔しさは消えない。けれど、復讐など神がお許しにならない。そう思うのに、清らかな心は戻ってこない。胸に渦巻く靄も、晴れる気配がなかった。 ***今日は学園へ登校した。マールトンはわたくしとは口も効かないくせに、課題のノートだけはわたくしの机へ放り投げてくる。カタリンも「あら、ついでに私のも~」と笑いながら、自分のノートを差し出した。今までのわたくしは、断り切れず三人分の課題を黙ってこなしていた。教師も筆跡が同じだと気付いているはずなのに、何も言わず黙認している。わたくしが課題に追われている間、二人は先に帰って逢瀬を重ねていたのだ。なんて馬鹿らしい。わたくしは二人のノートに触れることすら嫌になり、そのまま机の上へ置き去りにして、教室を後にした。 ***そんなことよりも、今は考えなければいけないことがある。このままでは、わたくしは前回と同じようにカタリンに毒殺されてしまう。毒殺を回避することだけは、絶対に譲れない。そのために、あの魔術師に協力してもらえないか頼んでみよう。問題は、その先だった。婚約を解消し、二人と縁を切るだけでいいのか。「浅はかなことを考えるのはやめて」とカタリンに直接言う?「浮気をやめて」とマールトンに訴える?復讐なんて、そんな恐ろしいこと……神がお許しになるはずがない。けれど、裏切りには相応の報いを受けてもらい、教育すべきではないか?わたくしが味わった苦しみの、十分の一でもいいから……。心は揺れ動き、夜になっても答えは出なかった。 ***翌日、マールトンとカタリンは課題をやっていないことに気付くと、わたくしを責め立てた。同級生たちは、あまりにも身勝手な二人の言い分に、白い目を向けている。「あなたたち、自分で課題をやっていないと大声で言っていることに気付いている?」わたくしは静かに言い返した。心臓がばくばくしている。机の下の手も震えている。そこへ教師が教室へ入ってきた。二人は課題をやってこなかったことを
翌日は学園が休日だったため、部屋で考え事をすることにした。どうやら、毒殺されて時を遡ったのは、夢ではなく現実らしい……。考えを整理するため、ノートを取り出す。・一か月後にカタリンに毒殺される。トルタを食べる前だから、毒はカーヒーの中?・カタリンはどうやって毒を手に入れた?・殺害動機はマールトンの子を妊娠し、一刻も早く彼と結婚する必要があったから。・マールトンはどこまで知っていたか。妊娠は? 毒殺は?・誰が時を戻す魔導具を使ったのか?最初に浮かんだのは、マールトンだった。わたくしが死ねば、婚約解消で揉めることもなく、カタリンと結婚できただろう。彼にとっては望み通りの結末なのだから、時を戻そうとする理由はない気がする。では、彼の父親であるヘーデルヴァーリ伯爵?いいえ。我がセーケイ家との繋がりを重視するなら、もっと早い段階でマールトンを叱っていたはずだ。もしかして、結婚後にカタリンがおかしなことをしたのかしら?……わからない。頬杖をついてノートを眺めていても、答えは出ない。自分の死後のことなど、わかるはずもないのだから――思わずため息を吐いた、そのときだった。「お客様がお越しです」侍女に声をかけられ、わたくしは顔を上げた。「あら。先触れはあったのかしら?」「ございません。突然のご訪問でございます」まさかマールトンかと思ったが、どうやら違うらしい。訪ねてきたのは、魔術師だという。我がセーケイ家は魔導具の廉価版を製作している。そのため、オリジナルの魔導具を生み出す魔術師は、何より大切な存在だ。良い関係を築き、できれば我が家のパートナーになってもらいたい。わたくしはノートをしまうと、応接室へ急いだ。そこにいたのは、ぼさぼさの長い髪に、清潔とは言いがたい服をまとった男だった。身なりに頓着しない魔術師は珍しくない。前髪に隠れて目元は見えず、どこか胡散臭い雰囲気を漂わせている。だが、実力ある魔術師かもしれない。丁寧に応対するべきだ。「初めまして。魔術師のガーボル・ヴェレシュです」「お目にかかれて光栄ですわ。イロナ・セーケイと申します」ガーボルが差し出した手を取り、握手を交わした。手の甲に口づけを受けるのではなく握手というのが新鮮だ。パーラーメイドがガーボルの前にカーヒーを運び、わたくしにはハ
苦しかった肺に、一気に空気が流れ込んできた。「ぶわっ」おかしな声を上げて、わたくしは目を覚ます。親友のカタリンの家で毒を飲まされ、死んだと思ったのに……生きている?体を起こした途端、激しくむせ込んだ。あの焼け付くような痛みはない。それなのに、咳だけが止まらない。「お嬢様、どうなさいましたか?」メイドが部屋の外から声をかけてくる。返事をしたくても咳き込むばかりで、言葉にならない。「イロナ様、失礼いたします!」侍女が部屋に駆け込んできた。すぐに水を用意し、わたくしの背中をさすりながら、そっと口元へ運んでくれる。飲むのが怖い。けれど、信用できる侍女が用意してくれたもの。勇気を振り絞り、震える手でコップを受け取った。思わず眉間にしわが寄ってしまう。思い切って、こくりとひと口飲む。冷たい水が、乾ききった喉を潤し、体の奥まで染み渡っていくような心地がした。しばらくすると、荒い息が少しずつ落ち着いてきた。「イロナ様、大丈夫ですか?」咳き込みすぎてあふれた涙を、侍女がやさしく拭ってくれる。「ありがとう。……むせてしまったわ」あれは嫌な夢……だったのだろうか。それにしては、あまりにも生々しい。息ができない恐怖が、まるで魂に刻み込まれてしまったような気さえする。でも、ただの悪夢だったのなら、いつまでも引きずってはいけない。今日は学園へ行かなければならないのだから。少し早いけれど、わたくしは着替えることにした。学園へ持っていくノートを何気なく開くと、最近の授業内容が消えていた。どういうこと?慌てて他のノートも開いてみる。けれど、どれも同じだった。突然、ノートを次々とめくり始めたわたくしを、侍女は不思議そうな顔で見つめている。落ち着かなければ。あまりおかしな振る舞いをしてはいけないと、自分に言い聞かせた。「……ねえ、今日は何日?」内心の動揺を隠しながら侍女に問いかけると、返ってきた答えは、一か月前の日付だった。窓の外へ目を向ける。庭に咲いている花々も、記憶より少し前の景色だった。え……ど、どういうこと?とにかく状況を把握しなければ。そう考えたわたくしは、いつも通り食堂へ向かった。今日はわたくしが一番乗りのようだ。父の席には、まだ誰も読んでいない新聞が置かれている。さりげなく日付に目をやると、そこには確かに一か
わたくしはセーケイ子爵家の娘です。兄がおりますので、いずれはどこかへ嫁ぐ身でした。十五歳の時に、お見合いをしました。お相手は、マールトン・ヘーデルヴァーリという同い年の男の子です。どきどきしていたわたくしに、彼は優しく微笑みかけてくれました。学園に入学する前に婚約が成立しました。彼がいてくれるので、とても心強いと思ったことを覚えています。入学してすぐに、カタリン・ヴァッシュというお友達ができました。カタリンは男爵位を授かったばかりの家の娘で、貴族社会のことがよくわからないそうです。そのため、わたくしも知っていることを、いろいろと教えてあげました。逆に、平民のことを教えてもらうこともありました。婚約者のいる男性でも構わずに声をかけるので、あまり馴れ馴れしくしてはいけないと教えると、「平民ならこれくらい普通よ」と笑います。学園では、婚約者同士でお昼を一緒に食べることを推奨していました。「明日は別に食べましょう」そう提案すると、カタリンは頬を膨らませました。以前、「人見知りのイロナに付き合っているせいで、他の人とお昼が食べられないのよ」と言われたことがあったからです。だから、特に問題ないと思ったのですが……。ところが当日、カタリンは「賑やかな方がいいでしょ」と言って、当たり前のようにわたくしたちの間に入ってきました。呆気にとられているうちに、カタリンはマールトンとすっかり打ち解けてしまったのです。「ああいう、明るい子がいるといいよね」マールトンにそう言われたとき、胸がちくりと痛みまました。嫌だと思ってしまうわたくしは、心が狭いのでしょうか。「今度は二人きりで食べましょう」と誘うのは、はしたない気がして、どうしても口にすることができませんでした。そのうち、要領の悪いわたくしが課題を終える前に、二人だけで帰ってしまう日が増えていきました。以前は待っていてくれたのに、と寂しくなるわたくしは、我が儘なのですね。わたくしは自分の家の馬車に乗り、一人で帰ります。入学したばかりの頃は、マールトンが彼の家の馬車で送り迎えをしてくれました。ですが、何度か帰りに置き去りにされてしまったので、それからは別々に登校しています。婚約者だからといって、その厚意に甘えすぎたのでしょう。だから、マールトンは何も悪くないのです。「あまりに距離が近いと、誤解
俺は罪人として、魔術研究のモルモットにされている。 新たな攻撃魔法を浴びせられ、骨折を治せるはずの魔法陣に乗せられ、体液を採取される。ここには人権など存在しない。まるで、マッドサイエンティストの巣窟だ。時間だけは嫌と言うほどある。だからこそ、過去の出来事を思い返し、あれこれと考えてしまう。俺は、由緒あるヘーデルヴァーリ伯爵家で生まれ育ったマールトンだ。――俺は何一つ罪など犯していない。 ***禁術を使ったのは、あのしけた魔道具屋の店員だ。イロナを毒殺したのはカタリンであって、俺は何もしていない。何も悪いことをしていないのに、俺は冤罪でこんな場所に閉じ込められている。……なぜだ。イロナ。助けてくれ。今度こそ、お前を大切にする。ちゃんと愛してやる。だから、まずはここから出してくれ。父上、母上。大切に育てた俺を、本当に見捨てるはずがありませんよね。俺が心から反省すれば、「それでいいんだ」と頭を撫でてくれますよね。魔術研究の他に、俺は騎士団の調査に協力している。時間を巻き戻した魔術師を見つけ出すのだ。あの男に、俺がイロナとやり直すためにどれだけ苦労したか、証言させる。そうしたら、イロナも素直に俺の愛を受け入れられるだろう。巻き戻りに協力した魔術師は、陰気な奴だった。背中を丸め、長いぼさぼさの髪で目元を隠し、不気味な雰囲気をまとっていた。路地裏の小さな魔導具店の店員だ。騎士団に命じられ、その店へ案内した。だが、そこにいたのは、はきはきと話す爽やかな青年だった。姿勢は良く、身なりも整っている。髪型もすっきり清潔感があり、とても同一人物とは思えない。少しだけ、イロナが好きだと言っていた役者に似ていた。他に店員はいない、小さな店だという。「こいつじゃない……」そうつぶやくと、騎士が鼻で笑った。「――だろうな。念のために確認に来ただけだ」どうやら騎士団の捜査にも何度か協力しているらしく、騎士が「この前は世話になったな」と気さくに話しかけている。店員はちょっと緊張した面持ちで、俺の方を見た。「こ、この人はヴァッシュ邸での毒殺未遂の関係者なんですか?」と驚いたように尋ねてきた。関係者というか……直接事件に関わったわけではないんだが。しかし、そうか。こいつがあの日、イロナを助けてくれた者の一人か。「イ







